2020年9月30日水曜日

美しい緑との共演 | 福岡空港 下月隈1号緑地



九州の玄関口として活躍する福岡空港は福岡市中心部からほど近い好立地に位置している。その為、2019年(令和元年)の着陸回数、利用客数は共に国内4位につけており国土交通省の定める混雑空港に指定されている。

参考:国土交通省 空港別順位表

だが、意外なことに滑走路と並行誘導路が1本しかない為、離着陸のピークとなる時間帯は誘導路上で待機をする飛行機が日常的に列をなしている。そこで現在、国際線ターミナルのある西側に新たな滑走路を建設中だ。(2024年度完成予定)


AIS JAPAN

福岡空港は外周撮影地にも恵まれており、空港の南北に点在している。今回はその中で空港の南端、滑走路34エンドに位置する「下月隈1号緑地」を紹介する。


目の前に広がるは美しい平原



下月隈1号緑地は滑走路34エンドにある小さな公園だ。公園には無料の駐車場も完備されており、車でのアクセスはしやすい。そして、公園の隣には空港が管理する野原が一面に広がる。空港所有地なので中に入ることは出来ないが、周囲の道路が高い位置にある為、道路から撮影することが出来る。

因みに写真の野原は新滑走路のアプローチコース上となる予定なので、今後景色が変わる可能性がある。


撮影の流れ


風景と絡める場合、ここでの撮影は

置きピン

を基本に飛行機をレンズで追わず、飛行機がフレーム内に入ってくるのを待とう。

南側からR/W34へアプローチする

シャッターを何枚か切って自分の気に入った構図を探そう


ここで撮れる作品


望遠レンズを使えば飛行機に寄った写真を撮ることも出来るが、ここは開けてる上に人工物も少ない為、是非とも風景を絡めた写真を撮りたいところ。


Canon 6D MkII, EF24-70mm, 1/1000s, f6.3, ISO200

Canon 6D MkII, EF24-70mm, 1/1000s, f6.3, ISO200

Canon 6D MkII, EF24-70mm, 1/1000s, f6.3, ISO200


まとめ


・午後順光

・R/W34着陸機を撮影可能

・風景と絡める場合:焦点距離50mm

・機体をアップで撮る場合:焦点距離100mm~


アクセス

無料駐車場あり(約15台)





2020年9月28日月曜日

迫力満点のタッチダウンが見れる! | 熊本空港 外周道路


熊本空港は熊本市中心部から九州屈指の温泉街阿蘇に向かう丁度中間地点に位置している。全長3000mの滑走路が東西に伸びており、地方空港としては充実した設備を誇っている。かつてはANAがB747SPを就航させていた事もあった。現在では近距離国際線が飛来する国際空港としての側面もある。



航空撮影家にとっては雑誌で一躍有名となった夕日と離陸する飛行機を絡んだ写真が撮れるスポットとして知られている。だが、熊本空港は夕日だけが魅力ではない。今回紹介するスポットは滑走路北側にある外周道路だ。

空港北の外周道路は家族連れにも人気



空港の北側、滑走路と並行して走る外周道路は週末になると航空ファンだけでなく、家族連れで賑わう一大観光スポットとなる。人気の秘密はこの道路はなんと

空港のフェンスよりも高い位置にあるのだ

一般的に空港を遮るフェンスは防犯上の観点から背の高いものが多い。その為、場所によっては脚立が必要となる。だが、この道路はフェンスの先端よりも高い位置にある為、脚立はおろか子供の目線でも空港内を見渡すことが出来る好立地となっている。


着陸機撮影の流れ


阿蘇の外輪山をバックにゆっくり降りてくる
目の前でタッチダウン
スラストリバーサーを用いて減速
全開状態のスポイラー
誘導路をタキシングして戻ってくる
ターミナルに到着


ここで撮れる作品


Canon 6D MkII, 150-600mm, 1/1000s, f6.3, ISO200

Canon 6D MkII, 150-600mm, 1/1000s, f6.3, ISO200

Canon 6D MkII, 150-600mm, 1/1000s, f6.3, ISO200

まとめ


・午前順光

・離着陸どちらも撮れる

・焦点距離は200mm~400mm

・トイレ、コンビニ、飲食店なし


アクセス


近くに公共交通機関が無いためマイカー等が必須






2020年9月25日金曜日

航空科学博物館から成田空港のA滑走路離陸機を撮る

 


成田空港南端に位置する航空科学博物館は週末になれば家族連れや団体旅行客で賑わう人気の観光スポットだ。筆者も幼少期に親に連れられ訪れた記憶がある。

そして、航空撮影家からは北風運用時にA滑走路に着陸する機体を午前中に順光で撮影できるスポットとしても知られている。



では反対に

南風運用時にA滑走路を離陸する機体を撮ることは出来るのか?

という疑問がある。そこで今回はこれを検証してきた。


撮影の流れ


①最上階の展望室で誘導路を観察



②撮りたい飛行機に動きが見られたら、階段・エレベーターで3Fに降り屋外の展望台へ




③新館の屋根や電柱が被らないようになるべく後ろから撮影する


焦点距離600mm
焦点距離275mm
焦点距離232mm

・正面を撮るには600mm以上が必要


Canon 6D MkII, 150-600mm, 1/1000s, f6.3, ISO100

このポイントは被写体に比較的近い位置で撮影できるが、離陸機の正面を撮影するには焦点距離400mmでは少し足りない。焦点距離600mm以上の超望遠レンズがあると上手くとらえることが出来る。正し、夏場は暑さから滑走路上にモヤが発生するので注意が必要だ。

滑走路が見えないので、石油タンク辺りに狙いを定めておく

・大型機以外は撮るのは難しい



昨今は燃料を節約するため、短い滑走距離・きつい上昇角で上がっていく機体が多い。そのため離陸機を撮ろうとしたら、飛行機のお腹(底面)の写真ばかり撮っていたという人も多いのではないだろうか。

しかし、大型機や長距離路線の機体は重量が重いため、ゆっくりとした上昇角で上がっていく。お目当ての飛行機が大型機なら、撮影のチャンスは大いにあるだろう。

ネパール航空A321 機体サイズは小さいが、低めの上りだった

ここで撮れる作品


Canon 6D MkII, 150-600mm, 1/1000s, f6.3, ISO100

Canon 6D MkII, 150-600mm, 1/1000s, f6.3, ISO100

Canon 6D MkII, 150-600mm, 1/1000s, f6.3, ISO100

Canon 6D MkII, 150-600mm, 1/1000s, f6.3, ISO100

外周スポット「三里塚さくらの丘」と比較

Canon 6D MkII, 150-600mm, 1/1000s, f6.3, ISO100

A滑走路を挟んで西側に位置する「三里塚さくらの丘」も南風運用時に離陸機を撮ることが出来るスポットだ。こちらは午後順光で、当然の事ながら航空科学博物館とは反対に、機体の右翼側を撮ることが出来る。また、航空博物館よりも滑走路中心位置に近い為、焦点距離は300mm程度で撮ることが出来る。

Canon 6D MkII, 150-600mm, 1/1000s, f6.3, ISO100


まとめ


  • 午前順光
  • 大型機なら離陸機も狙える
  • 正面を撮るには焦点距離600mm~
  • 側面を撮るには焦点距離300mm~


開館時間


開館時間:10:00~17:00 (最終入場16:30)

休館日:毎週月曜日、年末


入場料


大人 700円、中高生 300円、こども 200円

※JAFカード、各種クーポン券による割引あり


アクセス


空港からの路線バスがあるが本数が少ないので、マイカーで来ることをお勧めします。



あとがき



筆者が航空科学博物館を訪れたのは8月の上旬。COVID-19に伴う世界的な貨物需要増加に伴い飛来したヴォルガ・ドニエプル航空のAn-124 ルスラーンを撮る為だ。航空科学博物館の展望室からは貨物区が一望できるため、荷物の搬入作業を確認することが出来る。

因みにこの日は1日中粘ったが、飛び立つことはなく、翌日の夕刻アンカレッジに向け飛び立っていった。次に飛来する際は是非とも飛んでいる姿を写真に収めたいところだ。




2020年9月24日木曜日

News! 過去の記事を検索しやすくしました!


昨年の年末から始めた当ブログも早いことに一周年が間近に迫ってまいりました。スローなペースではございますが、記事の数も順調に増えてきたのでちょっとしたリニューアルをしていきたいと思います。

まず、読者から指摘のあった2点を順次改善していきます。


1. 過去記事が見つけづらい


Before

After

以前のジャンル別記事一覧はリンク付けされた写真とタイトルだけだった為、記事の内容が分かりづらい問題がありました。

そこで、試験的にブログカードを用いたリンクを導入致しました。現在「ミリタリー&歴史」ページにて運用中です。こちらの方が使いやすいという事であれば、順次ブログカード化を行っていきます。

2. クレジットが大きすぎて写真が見づらい


Before

After

 ブログ主が撮影した写真はクレジットを入れる様にしていますが、初期の投稿ではクレジットの表示が大きく写真が見づらいという問題がありました。

そこで、古い記事に関しても最新記事と同様の大きさのクレジットに順次変更しています。また、記事のタイトル画や絵画などはクレジットが中央にあると見づらくなるため、クレジットを右下に移動しました。
これらは少しずつ対応記事を増やしていきたいと思います。

右下クレジット例

あとがき


歴史ネタを入れた記事を作成する際は参考文献が複数ある場合が多く、投稿ペースの遅れにつながっています。その為、ボリュームの多い歴史モノの間にそれ以外の記事を挟んで投稿ペースを上げようと思います。有意義な情報の発信が出来る様に努力していきますので、これからもよろしくお願いします。


2020年9月18日金曜日

アメリカ独立戦争と英国海軍 |National Maritime Museum 国立海洋博物館 [その3]


ロンドン・グリニッジにある国立海洋博物館(以下NMM)の展示品を紹介するコーナーの第3回。今回はアメリカ独立戦争を取り上げます。

ただし、今回はマイナーな海の上での戦闘を取り上げるので、ジョージ・ワシントンの大陸軍は殆ど登場しないのでご容赦願いたい。

第1章 新なる国家の産声



世界史ではボストン茶会事件(1773年)が引き金となり独立戦争が始まると教わるが、サミュエル・モリソン博士(Harvard Uni.)曰く「1776年の独立宣言まで独立宣言まで、アメリカ独立戦争を予兆する兆候は何も無かった」と言う。

当初は英連邦からの独立が目的では無く権利の主張だった。それ故、茶会事件を起こした「Sons of freedom」と呼ばれる市民グループは知識人から冷ややかな目で見られていた。しかし、次第にトマス・ペインの「Commonwealth(常識)」に代表されるような独立こそが真の自由をもたらすと言う主張により独立への気運が高まったと言われている。

対する英国はというと、1763年以来7年間に4回も政権が変わると言う混迷期であり、時の首相ノース卿(Frederick North)は優柔不断な男で求心力には乏しい人間だった。彼を支えるのは植民地卿のジャーメイン(George Sackville Germain)と海軍卿サンドウィッチ伯モンターギュだったが。陸軍を指揮下に入れるジャーメインは軍事に関してはまったくの初心者。サンドウィッチ伯はかつては有能な人物だったが、既に腐敗や汚職に手を染めており柔軟な対応は期待出来なかった。

☆豆知識☆



因みに海軍卿のサンドウィッチ伯は食べ物のサンドウィッチや南大西洋のサンドウィッチ諸島は彼の名前から名付けられた事が知られている。なんでも賭博好きな彼がゲームの最中でも食べられる様に産まれたとか。

第2章 フランスの参戦



1777年、英国陸軍のハウ将軍率いる1万8000は9月26日に植民地軍の首都であるフィラデルフィアを占領した。しかし、英国が目論んだ首都占領による講和という目論見は外れ、それどころか別動隊としてカナダから南下していたバーゴイン将軍の軍はサラトガの戦いでゲイツ将軍率いる大陸軍に大敗した。

全体としては何方も1勝1敗ではあるが、北米大陸での火消しに苦戦する英国を他の欧州諸国が黙って見ている訳は無かった。

1778年 フランスはアメリカと秘密同盟を結び、英国との戦争状態へと突入する
1779年 スペインがミノルカ、ジブラルタル等の植民地を奪還する好機と見て参戦
1780年 ロシアのエカチェリーナ二世が英国の北米大陸の海上封鎖に対抗するためにスウェーデン、デンマーク、プロイセン、ポルトガルと武装中立同盟を結成。
これに参加しようとしたオランダの背反行為に対し、今度は英国が宣戦布告

結果、英国は欧州の中で孤立する深刻な情勢となる。


これらの脅威に対抗する英国海軍は七年戦争終結後の莫大な負債による海軍予算の削減により、弱体化していた。フランス参戦に伴いサンドイッチ伯は議会で35隻の戦列艦が既に準備万端であると答えたが、海峡艦隊のケッペル提督によると「なんとか近海で使えそうなのが6隻、地中海まで行けそうなのは皆無」だったと言う。

・アシャント島の海戦



アメリカ独立戦争において英仏艦隊が初めて対決したのはボストンの南に位置するロード・アイランド沖での海戦である。英国艦隊は数的不利な状況の中、老練なハウ提督の活躍もありフランス艦隊によるロード・アイランド攻略は失敗に終わった。

しかし、この時点ではお互いの主力艦隊は本国に温存されており、直接対決の機会を伺っていた。そして1778年5月3日、アシャント島沖にて遂にその機会が訪れる。

アシャント島はドーバー海峡の玄関口に位置しており、フランスの軍港ブレストと程近い為、これまで幾度となく海戦の舞台となってきた。この日も地中海のツーロン艦隊と合流するべくブレスト軍港から出港したドルヴィリュー伯爵率いるフランス艦隊と、これを阻止するべく迎撃したケッペル提督率いる英国艦隊が同海域で激突した。


ケッペル提督の艦隊はハーランド提督の前衛艦隊、司令官自ら指揮する中央本隊、パリサー提督の指揮する後衛艦隊の3つで構成されていた。戦闘は反航戦から始まったが、フランス艦隊が英国艦隊を追わず、そのまま進路を南に向けブレスト軍港に撤退する動きを見せた為、ケッペルはこれを追撃するべく全艦に反転追撃を指示した。

しかし、ここで英国艦隊に事件が発生する。後衛のパリサー艦隊はこの信号を無視し戦列から離脱したのだ。更に、ケッペルがフリーゲート艦を用いて伝令を送ったが、パリサーはこれも無視した。最終的にケッペルはパリサー指揮下の船に直接信号を送り、本隊に合流する様に促したが、既に交戦可能域を脱しておりフランス艦隊は戦域を離脱した。

結果、主力艦隊同士の直接対決になった本海戦は何ら成果を上げる事が出来ないばかりかフランス艦隊を逃してしまった。当然、この失態によりパリサーは世間から強い批判を受ける事となり、1779年1月2日軍法会議が開かれる事となった。しかし、軍法会議で裁かれる立場になったのはあろう事か司令官のケッペルだった。

と言うのもパリサーは軍法会議を開催する海軍本部(Admiralty)のコミッショナーを兼任していたからだ。それだけに留まらずパリサーは証拠品となる航海日誌の改竄行為も行った。しかし、検察側の証人の殆どがケッペルに味方をした。その中には、後にフランス革命戦争とナポレオン戦争で活躍しセント・ヴィンセント卿となるジョン・ジャーヴィスの姿もあった。(当時は一介の艦長に過ぎない)

ケッペル提督は2月11日に無罪を言い渡されるものの、海軍本部への不信感から司令官の座を辞する事となる。英国海軍はこの年にケッペルとハウと言う有能な提督を失ってしまった。

海軍本部(Admiralty)跡

第3章 2人の英雄


アメリカ独立戦争も終盤に近づき、フランス艦隊との小競り合いに決着をつけるべく英国艦隊の指揮を任されたのが司令官のジョージ・ロドニーと彼を支える副司令のサミュエル・フッドである。しかし、この二人の性格はコインの表と裏の様に全く異なっていた。

George Brydges Rodney (1719-1792)

ロドニーは類稀な指揮能力を持つ提督であるが、女癖が悪く、大のギャンブル好きで常に金銭的問題を抱えていた。しまいには借金を返せなくなり1774年9月、フランスのパリに逃亡した。しかし、ここでも借金を抱え込み、戦争の気運が高まった為に本国から召集が掛かったがフランス警察に借金を返すまで出国を禁じられた。そんな彼を助けたのがフランス陸軍元帥のド・ベロン公爵で、ロドニーの借金を全額返済したばかりでなく、彼が出国できる様に首相のモールパ伯爵と国王ルイ16世に願い出た。どうやらロドニーは名門貴族出身な事もあり、パリの社交界では人気者だった様だ。

Samuel Hood (1724-1816)

対するフッドは平凡な牧師の息子として生まれ、16才の時に海軍に入隊した。ロドニーとの出会いは士官候補生として「HMSルドロー(五等フリーゲート)」に乗船して以来となる。
ロドニーがギャンブラーな性格に対してフッドは根っからの船乗りで確かな戦略眼を持ち合わせていた。彼の戦術は階級の上下を問わず高く評価されており、後にナポレオン戦争で名前を残すネルソンからは「私が今まで会った中で最高のイギリス海軍士官だ」と評されている。

・セイント諸島の海戦



1781年、北米大陸での戦いに終止符が打たれようとしていた。折しもロドニーは持病である痛風の治療の為、艦隊をフッドに任せ本国に帰国していた。フッドはド・グラース率いるフランス艦隊を追って西インド諸島からアメリカ東海岸に北上し、トマス・グレイヴス率いるニューヨーク戦隊の指揮下に入った。フッドはグレイヴスにフランス艦隊が封鎖するチェサピーク湾への突入かフランス艦隊を湾外に誘き出す事を進言したが、グレイヴスは積極的攻勢に出る事を躊躇した。結果、コーンウォリス将軍率いる陸軍はヨークタウンで包囲され、敗北した。

北米大陸での戦いが決着した今、フランスは西インド諸島での植民地争奪戦においても決着を付けようと攻勢に出た。これを迎え撃つのは本国から帰還したロドニーと先のチェサピーク湾で苦い思いをしたフッドである。西インド諸島においてアメリカ独立戦争最後の海戦が始まろうとしていた。


1982年4月8日、フランス艦隊を指揮するド・グラースは戦列艦33隻と輸送艦隊を引き連れてマルティニーク島からジャマイカ攻略の為出撃した。

4月9日、フッド率いる前衛部隊がフランス艦隊の一部と交戦するも双方被害は少なかった。
その後、ロドニーはフランス艦隊を見失ってしまうが、思わぬ幸運に恵まれる。

4月12日深夜2時、フランス艦隊の戦列艦「ゼレー」が旗艦「ヴィル・ド・パリ」に衝突してしまう。そして夜が明けようとする時、フリーゲート艦に曳航される「ゼレー」は遂にロドニー艦隊に発見される。

ロドニーは今度は後衛につけたフッドにフランス艦隊から孤立した「ゼレー」を攻撃させ、自分はフランス艦隊の追撃を諦めたと思わせる為、距離を取った。
このロドニーが仕掛けた罠にド・グラースはまんまと引っかかってしまった。"ゼレー"を救うために全艦隊を反転させたのだ。

午前7:00、セイント諸島の南にて両艦隊は交戦状態に入る。
風向きは東風で英国艦隊は北へ、フランス艦隊は南へ進路を取っていた。

午前9:15、風向きが急に南東に変化する。
これは英国艦隊にとって非常に有利に働いた。フランス艦隊が南下をするには英国艦隊がいる南西に進路を取らなくてはいけないからだ。ロドニーは戦列をフランス艦隊に突入させ敵の戦列を分断した。

午前11:00、ロドニーは戦列信号を下ろし各個に追撃を行わせた。
フッドはこの戦いで「HMSラッセル」の艦長ジェイムズ・ソーマレズと協力し、敵旗艦「ヴィル・ド・パリ」を降伏させている。

午後13:00、総追撃命令の信号旗が掲げられるが、1時間後に下げられる。
これに対し、フッドは不満だったらしく、翌日みすみす敵を逃してしまった事に対しロドニーに喰ってかかったそうだ。それに対しロドニーは怒るわけでもなく、ただ宥めただけと言われている。

結果、英国艦隊は一隻も失わなかったのに対し、フランスは旗艦を含む5隻を捕獲された。この海戦によりアメリカ独立戦争終結前にフランスが西インド諸島の植民地を英国から奪う試みは失敗に終わり、英国は経済の生命線である植民地の防衛に辛うじて成功した。

捕獲した「ヴィル・ド・パリ」艦上に立つロドニー

参考文献


「イングランド海軍の歴史」
著:小林幸雄、出版社:原書房、ISBN978-4-562-04048-3

次回予告


イギリスが生んだ英雄ネルソン


あとがき



投稿間隔が非常に空いてしまって申し訳ございません。本当はアメリカ独立戦争だけで一つの記事にする予定はなかったのですが、参考文献で紹介させて頂いた小林先生の著書が大変読みやすく面白い内容だったので追加させて頂きました。次回作については参考文献の調査が終わっていないので今しばらくかかると思います。このままだとまた投稿間隔が開いてしまいますので、間に別テーマの記事を挟みます。

今回の様な海戦図を書くツールについての情報をゆるーく募集しています。便利なソフト等があれば教えていただけると恐縮です。