2020年9月18日金曜日

アメリカ独立戦争と英国海軍 |National Maritime Museum 国立海洋博物館 [その3]


ロンドン・グリニッジにある国立海洋博物館(以下NMM)の展示品を紹介するコーナーの第3回。今回はアメリカ独立戦争を取り上げます。

ただし、今回はマイナーな海の上での戦闘を取り上げるので、ジョージ・ワシントンの大陸軍は殆ど登場しないのでご容赦願いたい。

第1章 新なる国家の産声



世界史ではボストン茶会事件(1773年)が引き金となり独立戦争が始まると教わるが、サミュエル・モリソン博士(Harvard Uni.)曰く「1776年の独立宣言まで独立宣言まで、アメリカ独立戦争を予兆する兆候は何も無かった」と言う。

当初は英連邦からの独立が目的では無く権利の主張だった。それ故、茶会事件を起こした「Sons of freedom」と呼ばれる市民グループは知識人から冷ややかな目で見られていた。しかし、次第にトマス・ペインの「Commonwealth(常識)」に代表されるような独立こそが真の自由をもたらすと言う主張により独立への気運が高まったと言われている。

対する英国はというと、1763年以来7年間に4回も政権が変わると言う混迷期であり、時の首相ノース卿(Frederick North)は優柔不断な男で求心力には乏しい人間だった。彼を支えるのは植民地卿のジャーメイン(George Sackville Germain)と海軍卿サンドウィッチ伯モンターギュだったが。陸軍を指揮下に入れるジャーメインは軍事に関してはまったくの初心者。サンドウィッチ伯はかつては有能な人物だったが、既に腐敗や汚職に手を染めており柔軟な対応は期待出来なかった。

☆豆知識☆



因みに海軍卿のサンドウィッチ伯は食べ物のサンドウィッチや南大西洋のサンドウィッチ諸島は彼の名前から名付けられた事が知られている。なんでも賭博好きな彼がゲームの最中でも食べられる様に産まれたとか。

第2章 フランスの参戦



1777年、英国陸軍のハウ将軍率いる1万8000は9月26日に植民地軍の首都であるフィラデルフィアを占領した。しかし、英国が目論んだ首都占領による講和という目論見は外れ、それどころか別動隊としてカナダから南下していたバーゴイン将軍の軍はサラトガの戦いでゲイツ将軍率いる大陸軍に大敗した。

全体としては何方も1勝1敗ではあるが、北米大陸での火消しに苦戦する英国を他の欧州諸国が黙って見ている訳は無かった。

1778年 フランスはアメリカと秘密同盟を結び、英国との戦争状態へと突入する
1779年 スペインがミノルカ、ジブラルタル等の植民地を奪還する好機と見て参戦
1780年 ロシアのエカチェリーナ二世が英国の北米大陸の海上封鎖に対抗するためにスウェーデン、デンマーク、プロイセン、ポルトガルと武装中立同盟を結成。
これに参加しようとしたオランダの背反行為に対し、今度は英国が宣戦布告

結果、英国は欧州の中で孤立する深刻な情勢となる。


これらの脅威に対抗する英国海軍は七年戦争終結後の莫大な負債による海軍予算の削減により、弱体化していた。フランス参戦に伴いサンドイッチ伯は議会で35隻の戦列艦が既に準備万端であると答えたが、海峡艦隊のケッペル提督によると「なんとか近海で使えそうなのが6隻、地中海まで行けそうなのは皆無」だったと言う。

・アシャント島の海戦



アメリカ独立戦争において英仏艦隊が初めて対決したのはボストンの南に位置するロード・アイランド沖での海戦である。英国艦隊は数的不利な状況の中、老練なハウ提督の活躍もありフランス艦隊によるロード・アイランド攻略は失敗に終わった。

しかし、この時点ではお互いの主力艦隊は本国に温存されており、直接対決の機会を伺っていた。そして1778年5月3日、アシャント島沖にて遂にその機会が訪れる。

アシャント島はドーバー海峡の玄関口に位置しており、フランスの軍港ブレストと程近い為、これまで幾度となく海戦の舞台となってきた。この日も地中海のツーロン艦隊と合流するべくブレスト軍港から出港したドルヴィリュー伯爵率いるフランス艦隊と、これを阻止するべく迎撃したケッペル提督率いる英国艦隊が同海域で激突した。


ケッペル提督の艦隊はハーランド提督の前衛艦隊、司令官自ら指揮する中央本隊、パリサー提督の指揮する後衛艦隊の3つで構成されていた。戦闘は反航戦から始まったが、フランス艦隊が英国艦隊を追わず、そのまま進路を南に向けブレスト軍港に撤退する動きを見せた為、ケッペルはこれを追撃するべく全艦に反転追撃を指示した。

しかし、ここで英国艦隊に事件が発生する。後衛のパリサー艦隊はこの信号を無視し戦列から離脱したのだ。更に、ケッペルがフリーゲート艦を用いて伝令を送ったが、パリサーはこれも無視した。最終的にケッペルはパリサー指揮下の船に直接信号を送り、本隊に合流する様に促したが、既に交戦可能域を脱しておりフランス艦隊は戦域を離脱した。

結果、主力艦隊同士の直接対決になった本海戦は何ら成果を上げる事が出来ないばかりかフランス艦隊を逃してしまった。当然、この失態によりパリサーは世間から強い批判を受ける事となり、1779年1月2日軍法会議が開かれる事となった。しかし、軍法会議で裁かれる立場になったのはあろう事か司令官のケッペルだった。

と言うのもパリサーは軍法会議を開催する海軍本部(Admiralty)のコミッショナーを兼任していたからだ。それだけに留まらずパリサーは証拠品となる航海日誌の改竄行為も行った。しかし、検察側の証人の殆どがケッペルに味方をした。その中には、後にフランス革命戦争とナポレオン戦争で活躍しセント・ヴィンセント卿となるジョン・ジャーヴィスの姿もあった。(当時は一介の艦長に過ぎない)

ケッペル提督は2月11日に無罪を言い渡されるものの、海軍本部への不信感から司令官の座を辞する事となる。英国海軍はこの年にケッペルとハウと言う有能な提督を失ってしまった。

海軍本部(Admiralty)跡

第3章 2人の英雄


アメリカ独立戦争も終盤に近づき、フランス艦隊との小競り合いに決着をつけるべく英国艦隊の指揮を任されたのが司令官のジョージ・ロドニーと彼を支える副司令のサミュエル・フッドである。しかし、この二人の性格はコインの表と裏の様に全く異なっていた。

George Brydges Rodney (1719-1792)

ロドニーは類稀な指揮能力を持つ提督であるが、女癖が悪く、大のギャンブル好きで常に金銭的問題を抱えていた。しまいには借金を返せなくなり1774年9月、フランスのパリに逃亡した。しかし、ここでも借金を抱え込み、戦争の気運が高まった為に本国から召集が掛かったがフランス警察に借金を返すまで出国を禁じられた。そんな彼を助けたのがフランス陸軍元帥のド・ベロン公爵で、ロドニーの借金を全額返済したばかりでなく、彼が出国できる様に首相のモールパ伯爵と国王ルイ16世に願い出た。どうやらロドニーは名門貴族出身な事もあり、パリの社交界では人気者だった様だ。

Samuel Hood (1724-1816)

対するフッドは平凡な牧師の息子として生まれ、16才の時に海軍に入隊した。ロドニーとの出会いは士官候補生として「HMSルドロー(五等フリーゲート)」に乗船して以来となる。
ロドニーがギャンブラーな性格に対してフッドは根っからの船乗りで確かな戦略眼を持ち合わせていた。彼の戦術は階級の上下を問わず高く評価されており、後にナポレオン戦争で名前を残すネルソンからは「私が今まで会った中で最高のイギリス海軍士官だ」と評されている。

・セイント諸島の海戦



1781年、北米大陸での戦いに終止符が打たれようとしていた。折しもロドニーは持病である痛風の治療の為、艦隊をフッドに任せ本国に帰国していた。フッドはド・グラース率いるフランス艦隊を追って西インド諸島からアメリカ東海岸に北上し、トマス・グレイヴス率いるニューヨーク戦隊の指揮下に入った。フッドはグレイヴスにフランス艦隊が封鎖するチェサピーク湾への突入かフランス艦隊を湾外に誘き出す事を進言したが、グレイヴスは積極的攻勢に出る事を躊躇した。結果、コーンウォリス将軍率いる陸軍はヨークタウンで包囲され、敗北した。

北米大陸での戦いが決着した今、フランスは西インド諸島での植民地争奪戦においても決着を付けようと攻勢に出た。これを迎え撃つのは本国から帰還したロドニーと先のチェサピーク湾で苦い思いをしたフッドである。西インド諸島においてアメリカ独立戦争最後の海戦が始まろうとしていた。


1982年4月8日、フランス艦隊を指揮するド・グラースは戦列艦33隻と輸送艦隊を引き連れてマルティニーク島からジャマイカ攻略の為出撃した。

4月9日、フッド率いる前衛部隊がフランス艦隊の一部と交戦するも双方被害は少なかった。
その後、ロドニーはフランス艦隊を見失ってしまうが、思わぬ幸運に恵まれる。

4月12日深夜2時、フランス艦隊の戦列艦「ゼレー」が旗艦「ヴィル・ド・パリ」に衝突してしまう。そして夜が明けようとする時、フリーゲート艦に曳航される「ゼレー」は遂にロドニー艦隊に発見される。

ロドニーは今度は後衛につけたフッドにフランス艦隊から孤立した「ゼレー」を攻撃させ、自分はフランス艦隊の追撃を諦めたと思わせる為、距離を取った。
このロドニーが仕掛けた罠にド・グラースはまんまと引っかかってしまった。"ゼレー"を救うために全艦隊を反転させたのだ。

午前7:00、セイント諸島の南にて両艦隊は交戦状態に入る。
風向きは東風で英国艦隊は北へ、フランス艦隊は南へ進路を取っていた。

午前9:15、風向きが急に南東に変化する。
これは英国艦隊にとって非常に有利に働いた。フランス艦隊が南下をするには英国艦隊がいる南西に進路を取らなくてはいけないからだ。ロドニーは戦列をフランス艦隊に突入させ敵の戦列を分断した。

午前11:00、ロドニーは戦列信号を下ろし各個に追撃を行わせた。
フッドはこの戦いで「HMSラッセル」の艦長ジェイムズ・ソーマレズと協力し、敵旗艦「ヴィル・ド・パリ」を降伏させている。

午後13:00、総追撃命令の信号旗が掲げられるが、1時間後に下げられる。
これに対し、フッドは不満だったらしく、翌日みすみす敵を逃してしまった事に対しロドニーに喰ってかかったそうだ。それに対しロドニーは怒るわけでもなく、ただ宥めただけと言われている。

結果、英国艦隊は一隻も失わなかったのに対し、フランスは旗艦を含む5隻を捕獲された。この海戦によりアメリカ独立戦争終結前にフランスが西インド諸島の植民地を英国から奪う試みは失敗に終わり、英国は経済の生命線である植民地の防衛に辛うじて成功した。

捕獲した「ヴィル・ド・パリ」艦上に立つロドニー

参考文献


「イングランド海軍の歴史」
著:小林幸雄、出版社:原書房、ISBN978-4-562-04048-3

次回予告


イギリスが生んだ英雄ネルソン


あとがき



投稿間隔が非常に空いてしまって申し訳ございません。本当はアメリカ独立戦争だけで一つの記事にする予定はなかったのですが、参考文献で紹介させて頂いた小林先生の著書が大変読みやすく面白い内容だったので追加させて頂きました。次回作については参考文献の調査が終わっていないので今しばらくかかると思います。このままだとまた投稿間隔が開いてしまいますので、間に別テーマの記事を挟みます。

今回の様な海戦図を書くツールについての情報をゆるーく募集しています。便利なソフト等があれば教えていただけると恐縮です。

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