イギリス、グリニッジにある国立海洋博物館(National Maritime Museum)の展示物などからイギリス海軍の歴史を紹介するコーナーも今回が最後となります。
最終回を飾るのはイギリスの国民的英雄「ホレーショ・ネルソン提督」に関する展示だ。
英国海軍の歴史を語る上で彼の存在を抜きに語る事は出来ない。彼が成し遂げた戦果は単に宿敵フランス、スペイン両艦隊を撃破した事に留まらない。英国が世界の海を制覇し、覇権国家となる礎を作った人物といえよう。
※博物館の概要については過去記事を参考にしてください
1. 生い立ち
ホレーショ・ネルソン大尉(18歳) |
ホレーショ・ネルソンは1758年9月29日にノーフォーク州ソープ村で牧師をしている父エドマンドと親戚が貴族の母キャサリンの間に生まれた。しかし、彼の家庭は決して裕福ではなかった。ネルソンが9歳(1767年)の時に母親が病死し、父親も11歳の時に病床に伏した為、家計は破産寸前であった。
そんな中、幼きネルソンが地方紙を読んでいたら、母方の叔父で海軍軍人のモーリス・サクリングが三等戦列艦(64門)「HMSレーゾナブル」の艦長になった事を知り、彼の下で海軍軍人になる事を目指す様になる。
サクリング艦長の下で航海技術の基礎を学び、彼の紹介で西インド諸島に向かう商船で働いた事もあった。その後、北極海の探検隊に参加し、船乗りとしてのキャリアを着実に積み重ねて行った。
アメリカ独立戦争では中米のサン・ホアン川(現在のニカラグアとコスタリカの国境付近)にあったスペイン軍の要塞を巡る戦いに参加したが、高温多湿のジャングルは疫病を敵味方関係なく蔓延させ、ネルソン自身も病に倒れた。今日最も有名なネルソンの肖像画はこの時描かれた姿だ。
2. フランス革命戦争
ヴェルサイユ宮殿 (フランス パリ郊外) |
時は下り1789年、フランス革命が勃発し王室を亡き者にしたフランス革命政府は国内の不満と怒りの矛先を周辺国に向けた。
フランスとの直接対決が迫る中、1793年にネルソンは三等戦列艦(64門)「HMSアガメムノン」の艦長を拝命した。当初はより大きい74門艦の艦長を約束されていたが、実際は旧式化しつつあった64門艦があてがわれた。この決定に当初ネルソンは不満を募らせたが、大砲が少ない分、足の速い本艦を直ぐに気に入った。HMSアガメムノンは早速、地中海艦隊に派遣され、フランス軍と相対する事となる。
1794年、コルシカ島を巡る戦いで陸軍と共に上陸作戦を指揮し砲兵隊を支援した。戦いのさ中、敵の砲弾がネルソンの近くの地面に落着し、舞い上がった砂塵が片目に入り、片目の視力を失ってしまう。しかし、怪我をしても一日も休むことなく前線で指揮を取り続けた。因みに片目が見えなくなっても眼帯はつけなかった。
・セント・ヴィンセント岬の海戦
セントヴィンセント岬の海戦 ©Wikipedia パブリックドメイン |
1795年、英国海軍地中海艦隊の指揮権がアメリカ独立戦争の名将であるサミュエル・フッド提督からジョン・ジャーヴィス提督に引き継がれた。ネルソンはジャーヴィス提督とは面識がなかったが、直ぐに意気投合し生涯彼の下で戦う事となる。
ジョン・ジャーヴィス提督 ©Wikipedia パブリックドメイン |
時を同じくしてコルドバ提督率いるスペインの大艦隊がカタルヘナを出港し、一路カディス港を目指していた。スペイン艦隊の目的はブレストでフランス艦隊と合流する事であった。
そして2月14日朝、両艦隊はセントヴィンセント沖で激突した。戦力はイギリス艦隊が戦列艦15隻に対してスペイン艦隊は戦列艦27隻を数え、数的にはスペイン艦隊が有利であった。しかし、戦争準備が整っていないスペイン海軍は水兵の訓練もままならない状態であったため、初手からカディス港への撤退に動いた。
この動きにすぐさま反応したのがネルソンが指揮を取る三等戦列艦(74門)「HMSキャプテン号」であった。キャプテン号は戦列の最後尾に近い13番目に位置していたが、ネルソンはこのまま先導艦の回頭を待っていれば、敵をみすみす見逃す事になる考え、下手回しで船を回頭するやいなや敵艦隊目掛けて単艦で突撃した。
ジャーヴィス提督もネルソンの果敢な行動を援護するべく突撃の信号をだし他艦も突撃を敢行、イギリス艦隊は勝利を収めた。ジャーヴィス提督はこの戦いの功績が認められ、自らの名を「セント・ヴィンセント伯爵」に改めた。
「サン・ニコラス」「サン・ホセ」に横付けする「HMSキャプテン」 (Nicholas Pocock画) ©Wikipedia パブリックドメイン |
「勝利かウエストミンスター寺院(墓場)行きだ!」
これによりスペイン軍の74門艦「サン・ニコラス」とキャプテン号よりも一回り大きな112門艦「サン・ホセ」を降伏させた。乗り込んだ敵船伝いにもう一隻の敵艦も落とした事から、英国海軍内では「ネルソン特許の敵船乗り込み橋」とも称された。
投降したスペイン艦の艦長から剣を授かるネルソン |
テネリフェ島での負傷 (Richard Westall作) National Maritime Museum収蔵 ©Wikipedia パブリックドメイン |
ジャーヴィス提督宛の手紙 慣れない左手での執筆に苦労している |
片腕でも食事ができる様にフォークとナイフを一体にした食器 素材は黄金製(ナイフ部はスチール) 晩餐会においてスペンサー伯爵夫人からプレゼントされた物 因みに晩餐会ではネルソンの妻が食事を切り分けていた |
・ナイルの海戦
フランス旗艦ロリアン号の爆発 (アーナルド・ジョージ画) National Maritime Museum収蔵 |
イタリア方面軍で名をはせた天才ナポレオン・ボナパルトは対外戦争に明け暮れる革命政府を既に見限っており、イギリス本土上陸作戦が不可能である事を悟っていた。その為、イギリスのインド植民地を脅かすべく1798年エジプトに遠征した。
イギリスはフランス軍が地中海方面で動きがあるという情報をつかんでおり、ネルソンも艦隊を引き連れ地中海中を探したが、遂に見つけることができずナポレオンのエジプト上陸を許してしまった。
ピラミッドの戦い ©Wikipedia パブリックドメイン |
ナポレオンの部隊を上陸させたフランス艦隊はアレクサンドリアの西にあるアブキール湾に停泊していた。奇襲を警戒してブリューイ提督率いるフランス艦隊はアブキール湾の砂州に沿って布陣していた。
8月1日14:00頃、ネルソンの艦隊がフランス艦隊を発見する。ブリューイ提督は夕刻に近づいていた為、今日仕掛けてくる事はないだろうと考え、艦隊を出港させなかった。しかし、そんな常識はネルソンに通用しなかった。そのまま敵艦隊に突撃し、敵艦隊の間をすり抜けるやいなや砂州と敵艦の間の僅かな隙間に艦隊を展開した。
フランス艦隊の砂州側は一歩間違えば座礁してしまう為、敵もそちらから攻撃を仕掛けてくるとは予想だにしなかった。ネルソンは船尾から投錨をする様に命じ、ホーサーを手繰り寄せる事で船を前後に移動させ効率的に砲撃を行った。この砲撃は非常に効果的でフランス艦は戦列艦9隻、フリーゲート艦1隻がイギリスに投降、戦列艦3隻、フリーゲート艦2隻がアブキール湾に沈んだ。対してイギリス艦隊の損害は無く、この戦いはネルソン艦隊の完勝に終わった。
ナイルの戦い (Thomas Whitcombe画) ©Wikipedia パブリックドメイン |
・コペンハーゲンの海戦
コペンハーゲンの戦い (Christian Mølsted画) ©Wikipedia パブリックドメイン |
地中海において、イギリスがフランス、スペインと対する中、これを機に地中海進出を目論む国があった。東の大国、ロシア帝国だ。1800年12月16日、ロシアはアメリカ独立戦争の時と同じく、スウェーデン、デンマーク、プロイセンと第二次武装中立同盟を結んだ。
海軍卿となったセント・ヴィンセント伯爵(ジャーヴィス提督)はこの動きを封じるべく、デンマークの首都コペンハーゲンを攻撃する事を決断した。イギリス艦隊を指揮するのは御年62歳となるハイド・パーカー、次席指揮官としてネルソンが任命された。
コペンハーゲンの街は無数の砲台と要塞、そしてマストを取外し浮き砲台となった戦列艦の列で守られていた。ネルソンは自ら短艇を操り戦いの前に湾内の水深を隈なく調べた。そして徹夜で作戦計画を練ると、1801年4月2日に艦隊を砂州で挟まれた細い回廊に突入させた。
しかし、砂州に囲まれた回廊は艦隊を展開するには狭すぎた。程なくして戦列艦3隻が座礁し戦闘不能となってしまう。その中にはネルソンが初めて指揮を取ったHMSアガメムノン号の姿もあった。後方から観戦していた司令官のパーカーはネルソンが窮地に陥っていると考え、信号旗39番'交戦ヲ中止セヨ(Discontinue the Action)'を掲げた。
これに対しネルソンは「'了解(Acknowledge)'とだけだしておけ」と命令し、更に「私の16番'接近シテ戦エ(Close Action)'はまだあがっているか?そのままにしておけ」と付け加えた。
そして、後世に伝わるネルソンの小芝居が始まる。ネルソンは座上しているHMSエレファント号の艦長フォウリーの方を向くと「フォウリー、君は知っているね。私には目が片方しか見えない。私は時には盲になる権利があるんだ」そう言って、目が見えない右目に望遠鏡をあてると「本当に信号なんて見ないぞ!」「16番を釘付けにしておけ!」と叫んだ。
Nelson Forcing the Passage of the Sound prior to the Battle of Copenhagen ©Wikipediaパブリックドメイン |
敵の浮き砲台は陸と橋で繋がっている為、常に兵士が補充され続け延々と砲撃戦が繰り広げられた。しかし、デンマーク側も被害が無視できないものになり、14:00になってイギリスの休戦交渉に応じた。この戦いはイギリスの勝利に終わったが、デンマークからしてみればコペンハーゲンの防衛には辛うじて成功した為、自分たちは負けていないと言う考えもある。
結果、バルト海の制海権はイギリス側に傾き武装中立同盟は瓦解した。そして、この戦いの2年後、アミアンの和約をもってフランス革命戦争が終結する。しかし、アミアンの和約が結ばれた後も戦いの炎はくすぶり続けていた。
コペンハーゲンの戦い (Christian Mølsted画) ©Wikipedia パブリックドメイン |
3. ナポレオン戦争
時を少し遡りフランス革命戦争終盤、フリーゲート艦によってエジプトからフランスに単身帰国したナポレオンはブリュメールのクーデターを起こし、統領政府を樹立した。ナポレオンは崩壊寸前のイタリア戦線を立て直し、イギリスとの間でアミアンの和約を結んだ。
しかし、ナポレオンは往年の宿敵イギリスを叩く機会を伺っていた。そんな折、まず先に仕掛けたのはイギリスであった。1803年、イギリスはフランスに宣戦布告。これに対し、フランスの同盟国であるスペインはイギリスに宣戦布告。ナポレオン戦争の火ぶたが切って落とされた。
・トラファルガー海戦
ナポレオンは想定以上にイギリスの参戦が早かった為、イギリス本土上陸作戦の準備を急ぐ必要があった。しかし、上陸作戦の訓練では荒天により兵士2千人が溺死する事故が発生し、更には作戦の要であるトゥーロン艦隊司令のラトーシェ・トレヴィル提督が病により急死してしまった。後任は優柔不断な性格のピエール・ヴィルヌーヴ提督。
ここから、ナポレオンのイギリス本土上陸作戦の歯車が大きく狂いだす。当初の予定ではアイルランドを陽動作戦で攻撃し、イギリス艦隊を引き付けている間にドーバー海峡を本体が超える手筈になっていた。しかし、ここにきてナポレオンは西インド諸島攻略を命令する。
① 追跡
イギリス艦隊は開戦初頭からフランス本土全ての軍港を封鎖していたが、当時は風が頼りの帆船の時代であった為、完全な封鎖網を築くことは出来なかった。1805年3月29日、ヴィルヌーヴはネルソンの監視網の間をすり抜けると地中海を脱出し、スペインのカディスを経由して大西洋を横断し、5月14日に西インド諸島のマルティニーク島に辿り着いた。ネルソンはこの動きを知り後を追った。ここに大西洋を股にかけた鬼ごっこが始まった。
ナポレオンが立てた計画ではマルティニーク島で全艦隊が集結する筈であった。しかし、この計画は失敗に終わった。最初にマルティニーク島に到着したのはミシシー提督のロシュフォール艦隊であった。しかし、待てど暮らせどガントゥーム提督のブレスト艦隊もヴィルヌーヴ提督のスペイン・フランス連合艦隊も現れない為、フランス本土ロシュフォール港に帰ってしまった。
大西洋を股にかけた逃走劇 ©Wikipediaパブリックドメイン |
ヴィルヌーヴは来る当てのない増援艦隊を西インド諸島で待っていたが、ネルソンの追跡を知り、6月4日にヨーロッパへ向けて出港した。ネルソンは直ちに本国の海軍本部宛に書簡を送り、ヨーロッパに帰ってくるヴィルヌーヴ艦隊を迎え撃つ様に要請した。この書簡はヴィルヌーヴがヨーロッパに辿り着く前に届けられた。しかし、迎撃の任を仰せつかったコールダー提督率いる海峡艦隊はヴィルヌーヴ艦隊と交戦し、敵艦2隻を捕獲するも撃破には失敗してしまう。
因みにこの時の戦い方が消極的だったと言う理由からコールダー提督は後に軍法会議にかけられている。国民の多くは「もし、ネルソンが指揮を取っていれば」と考えたが、当のネルソンはコールダー提督を擁護している。
何とかヨーロッパに帰ってきたヴィルヌーヴはスペインのカディス港に向かった。増援艦隊を合流させ、艦隊は最終的に戦列艦29隻の大世帯となっていたが、イギリス艦隊と交戦することなくスペインのカディス軍港に逃げ帰った。
② 決戦前夜
ロンドンのダウニング街にあった植民地省(左) 現在は外務・英連邦省が入っている 因みに現在大蔵省が入居する建物(右)の地下には第二次世界大戦中に チャーチル首相が指揮を取った地下壕がある |
1805年8月18日、西インド諸島を後にしたネルソンは2年ぶりに祖国の地を踏んだ。この時、植民地省の待合室で後にワーテルローの戦い(1815)でナポレオンを打ち破る陸軍のウェリントン公爵と対面している。
初代ウェリントン公爵 アーサー・ウェルズリー (Thomas Lawrence画) ©Wikipedia パブリックドメイン |
ウェリントン公は隻腕隻眼の姿からその人物がネルソンと初めから気付いていたが、当のネルソンは知らなかった為、初めは自分の自慢話をしていたと言う。途中で、相手が陸軍の将官である事を知ると態度を変え、大陸情勢について語ったと言う。勿論、当時のウェリントンはまだ無名の陸軍少将に過ぎず、爵位も持っていなかった。
9月13日、ネルソンはロンドン郊外にあるマートンの家を後ろ髪を引かれる思いで後にして翌早朝、ポーツマス軍港についた。
③ 勝利
HMSインプラカブルの艦尾 この船はトラファルガー海戦において英国海軍に捕獲された フランスの74門戦列艦"デュゲイ・トルーアン号" 1949年まで保存されていたが、第二次世界大戦後の深刻な財政難により スクラップにされ、現在残っている艦尾以外はイギリス海峡に沈められた |
1805年10月19日、フランス・スペイン連合艦隊が出港した事を知ったネルソンは10月20日昼頃に地中海の入り口であるジブラルタル海峡を封鎖して待ち構えた。しかし、連合艦隊は現れなかった為、16:00頃北上しカディスに向かった。
翌21日、スペインのトラファルガー岬沖でカディスを出港し南下しつつあった連合艦隊と会敵する。
それぞれの戦力比は連合艦隊が戦列艦33隻及びフリーゲート艦7隻に対してイギリス艦隊は戦列艦27隻及びフリーゲート艦4隻。またしてもイギリス艦隊は数的不利な状況であるが、連合艦隊が寄せ集めの戦力なのに対し、イギリス艦隊はネルソン指揮の下一つに纏まっていた。
ネルソンは全艦に白色軍艦旗(ホワイト・エンサイン)を掲げるように命じた。当時は戦隊ごとに色違いの軍艦旗を用いていたが、ネルソンは当初から乱戦に持込む予定だった為、軍艦旗を統一させた。
HMSヴィクトリーに掲げられる白色軍艦旗(ホワイト・エンサイン) |
対する連合艦隊はイギリス艦隊が予想以上の数であった為、反転しカディスに逃げようと試みる。しかし、操船技術の低さと混成艦隊による指揮系統の複雑さから全艦回頭するのに1時間30分も要した。この時、ヴィルヌーヴはネルソンが併航攻撃ではなく戦列に突撃する事を予期していた。しかし、彼はカディスに逃げることに執着した。
ネルソンは決戦前に自室で祈りを捧げると、史上最も有名となる信号を掲げるように命じた。
England expects that every man will do his duty
英国ハ各員己ガ義務ヲ果タサンコトヲ期待ス
因みに日露戦争中の日本海海戦において日本海軍参謀の秋山真之が用いた「皇国ノ荒廃コノ一戦ニアリ各員一層奮励努力セヨ」の信号はこの信号を基にしている。海軍史の研究に熱心だった秋山ならではの発案だろう。
12:00頃、ネルソン指揮の旗艦「HMSヴィクトリー」を始めとする主力戦隊と副将でネルソンとは旧知の仲であるコリングウッド提督指揮の旗艦「HMSロイヤル・ソブリン」を始めとする別動隊の二つの戦隊が敵艦隊の中央に突入した。
突入中は反撃が出来ない為、ヴィクトリーはマストや帆だけでなく、舵輪も破壊された。ヴィクトリーは応急操舵のまま戦闘を継続した。13:10、フランスの戦列艦(74門)「ルドゥータブル」に接弦した。この艦は一等戦列艦(104門)であるヴィクトリーに比べ一回り小さいが勇敢に戦った。乗り込むまでには至らなかったが、激しい砲撃と銃撃戦が繰り広げられた。
中央にいるフォアマストだけ健在な船がHMSヴィクトリー (John Constable画)©Wikipediaパブリックドメイン |
昼過ぎがこの戦いのピークで、15:00頃になると砲撃は疎らになり、17:00には日没と共に戦闘が終了した。結果はイギリス艦隊の損失ゼロに対してフランスとスペインは9隻ずつ失い、司令官であるヴィルヌーヴはイギリスの捕虜となった。イギリスの完璧な勝利である。
(Auguste Étienne François Mayer画) ©Wikipediaパブリックドメイン |
➃ 英雄の死
ヴィクトリーがルドゥータブルと交戦中に悲劇が起こった。ネルソンとヴィクトリー艦長のハーディーは舵輪とキャビン入口の間を決まった周期で交互にゆっくり往来していた。
13:15、ハーディーが振り返ると、そこには床に倒れた司令官の姿があった。ネルソンは左肩を敵の狙撃手に撃たれていた。彼は直ちに安全な下甲板に運ばれたが、銃弾は胸部を貫通し、助骨2本を砕いて背中で止まっていた。軍医も手の施しようがなく、死期を待つしかなかった。
ネルソンは長い海軍生活の経験から自分が助からないことを悟っていた。ネルソンはハーディーに嵐に備えて投錨する様にコリングウッド提督に伝えるように命令した。ハーディーは後ろ髪を引かれる思いで戦闘指揮に戻った。
16:00、「神よ、感謝いたします。私は義務を果たしました」を最後の言葉に英国が生んだ英雄は帰らぬ人となった。
国立海洋博物館にはネルソン提督がトラファルガー海戦で着用していた衣装が展示されている。左肩には彼の命を奪った弾痕が残っている。ズボンには下甲板で治療を試みた時に切り裂いた跡が残っている。
4. ネルソン提督の人物像
ネルソンが用いた蝋印 |
ネルソンを一言で表すならば「大胆不敵」だろう。しかし、彼の行った突撃は猪突猛進でも破れかぶれでも無かった。全てにおいて勝利の道すじを描いており、更には下準備も抜かりなかった。
彼の戦い方から猛将とも捉えられるが、部下に対して厳しく当たったり理不尽な要求をした記録は残っていない。トラファルガー海戦前にも海軍本部のバラム卿に部下にする艦長を選ぶように勧められたが、「海軍は一枚岩、同じ海軍魂が貫いております。閣下ご自身がお選び下さい」と辞退している。当然、海軍内にはネルソンが嫌いとする人物もいたが、彼はそういった事にはこだわらなかった。
しかし、海軍の規律には厳しかったと言われている。フランス革命戦争時に革命思想の伝播によってイギリス海軍内でも反乱事件が相次いだ時は上官のジャーヴィス提督と共に激しく非難している。
エマ・ハミルトン (Élisabeth Vigée Le Brun作) ©Wikipedia パブリックドメイン |
これまでネルソンの英雄的側面に触れてきたが、ここからは影の面を紹介する。ネルソンは海の上の英雄であったが、陸の上では問題を抱えていた。特に妻帯者であるにも関わらずイギリスの駐ナポリ大使であるウィリアム・ハミルトンの妻エマ・ハミルトンと公然に不倫をしていた事は有名だ。
ハミルトン夫妻とは地中海艦隊時代にナポリを訪れた際に知り合い、懇意に接するようになった。1801年には妻のフランシスと別居、ハミルトン夫妻と共にマートンに移り住む。更にはエマとの間に女児ホレーシァを授かる。当然、ウィリアムも妻の不倫に気付いていたが、ネルソンは英国にとって必要な人物だと考え、1803年に享年72才で亡くなるその時までネルソンの親友でい続けた。
正妻であるフランシスは離婚を認めず、生涯レディー・ネルソンでい続けた。これは彼女なりのささやかな抵抗であったのかもしれない。
レディー・ネルソン ©Wikipedia パブリックドメイン |
5. ひとくち用語解説「上手回しと下手回し」
帆船は動力を持たない為、風の力を上手くコントロールして操船する必要がある。船の向きを変えるテクニックとして「上手回し(Tacking ship)」と「下手回し(Wearing ship)」がある。
上手回しは風上に向かって舵を切って旋回する方法、下手回しは風下に向かって舵を切って旋回する方法だ。下手回しは風の力を最大限に利用できる為、迅速な方向転換が可能だ。
対して上手回しは帆の展開と収納を複数回行わなくてはならず、逆風にも晒される為、低速で時間もかかる。しかし、上手回しを繰り返してジグザグに航行すれば時間はかかるが、逆風でも風上方面に移動することが出来る。
この二つの動きを上手く活用して船をコントロールする事は当時のシーマンにとって基本中の基本であった。
上手回し |
下手回し |
凡例 |
あとがき
ロンドン中心部にあるトラファルガー広場には ネルソン提督の彫刻が飾られている |
今回はイギリスの英雄、ネルソン提督を紹介させて頂きました。筆者が好きな歴史上の偉人なので、いつもの投稿に比べボリュームの多くなってしまいました。有名人物なので数多くの伝記が記されているのですが、文献によって言い回しや内容が変わっているので、どれが真実かを見極めるのに苦労しました。
彼が最後に座上した戦列艦HMSヴィクトリーは現在もイギリス海軍の軍艦として在籍しており(世界最古の現用軍艦)、ポーツマス軍港で一般公開されている。筆者は2018年に同艦も訪れているので、そちらも機会があったら記事にしたいと思います。
参考文献
- 「NELSON」出版:THE NATIONAL MUSEUM, ISBN:978-1-84165-439-3
- 「NELSON Britannia's God of War」著:Andrew Lambert, ISBN:0-571-21222-0
- 「HMS VICTORY POCKET MANUAL 1805」出版:OSPREY, ISBN:978-1-4728-3406-5
- 「THE LIFE OF NELSON [上]」著:Robert Southey, 監修:増田義郎, 訳:山本史郎, 出版:原書房, ISBN:4-562-03780-6
- 「THE LIFE OF NELSON [下]」著:Robert Southey, 監修:増田義郎, 訳:山本史郎, 出版:原書房 ISBN:4-562-03780-4
- 「イングランド海軍の歴史」著:小林幸雄, 出版:原書房, ISBN:978-4-562-04048-3
- 「ナイルの海戦」著: Laura Foreman & Ellen Blue Phillips, 訳: 山本史郎, 出版:原書房, ISBN:4-562-03301-0
- 「図解 ナポレオンの時代 武器・防具・戦術 大全」出版:カンゼン出版, ISBN978-4-86255-229-7
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