2020年7月31日金曜日

世界初の株式会社「イギリス東インド会社の栄光」|National Maritime Museum 国立海洋博物館 [その2]


前回に引続きロンドン・グリニッジにある国立海洋博物館(以下NMM)の展示品を紹介するコーナー。

前回(序章)はコチラ


今回は17世紀初頭に誕生した世界初の株式会社「東インド会社」をNMMの貴重な展示品を交えて解説する。

さて、高校の世界史の授業で学ぶ東インド会社は

・世界初の株式会社
・重商主義
・インド大反乱

についてサラッと登場するだけでは無いだろうか?

今回は会社の設立からどの様に発展して行ったのかをもう少し詳しく解説する。

黎明期(17世紀初頭)



東インド会社の設立は17世紀初頭エリザベス一世の時代に遡る。当時の航海は貴族が出資して行うのが一般的だったが、投資が高額な上に航海に失敗すれば当然、投資金は全額失う為リスクが高くハードルが高いものだった。

そこで考案されたのが、「株」を発行する事で複数人が出資出来る仕組みだった。この組織に王室が「東インドでの交易独占権」を与えたのが東インド会社の始まりとされる。因みに東インドと銘打っているものの、南アフリカからアジアまでの広大な海域全てに独占権が与えられた。

香辛料や茶葉だけで無く中国食器も高値で取引された

しかし、創設間も無い東インド会社は現在の一般的な会社とは異なる経営体系だった。会社が組織されるのは1回の航海の間のみで、恒久的な組織では無かった。映画やアニメの制作委員会に近い組織と考えると分かり易いのでは無いだろうか。

対して1602年に設立されたオランダの東インド会社は現在の株式会社に近い組織で永続的な資金の調達が可能だった。そう言った経緯から、資金力に乏しいイギリスの東インド会社はオランダが拠点としていた東南アジアから撤退し、インド貿易に舵を切る事となる。

拡大期(17世紀後半〜18世紀)


17世紀後半、イギリスは動乱の中にあった。議会と王室の間にあった亀裂はやがて武力衝突に発展し、7年間にも及ぶ内戦が起こった。(1649年ピューリタン革命)この内戦に勝った議会側の代表であるオリバー・クロムウェルは1657年に東インド会社をオランダと同じ恒久的な組織に改変し、国力強化を目指した。

キャプテン・ロバート・ノックス(1641-1720)
1660年、東インド会社の船長だったノックスはセイロン沖で嵐に合いマストを失った為、修理のためセイロン島に立ち寄る。同島の権力者だったRaja Singhaは彼が帰国するのを引き留めた為、ノックスは19年間同地に留まり現地の言語と文化の研究を行った

やがて、1660年の王政復古と1688年の名誉革命を経て、ようやく現在に通じる立憲君主制の政体に落ち着いた。これにより王室に変わってインド貿易の独占権を与える権限を持った議会は東インド会社の特権に疑問を持ち、1698年に新しい東インド会社を設立した。1709年に旧東インド会社と合併するまでの間は同じ国に2つの東インド会社がある状態が続いた。

ウィリアム三世時代の東インド会社の戦列艦(1690)
英国からアジアまでの危険な航海から積荷を守る為、強力な艦隊が必要だった。この船は当時の最も大きな船の一つで左舷と艦尾の二つの視点から描かれている(二隻を描いたものでは無く、一つの船を別の方向から描いている)

1709年に新体制となった東インド会社は商社として急成長する。交易路を海賊や敵性国家から守る為、強大な会社軍を組織する様になった。因みに東インド会社の社旗はアメリカ合衆国旗と英国旗を混ぜたデザインが使用された。

最盛期(18世紀後半)



東インド会社の持つ強力な艦隊はインド南部で競合していたフランス東インド会社を3度の戦争によって排除する事に成功した。(カーナティック戦争)南インドに拠点を築いた東インド会社が次に目をつけたのはインド東部ベンガル地方だった。この地域は長らく北インドを治めていたムガル帝国の領地だった。しかし、帝国の衰退と七年戦争で敵対関係にあったフランスの東インド会社が同国の支援を行った事により、プラッシーの戦い(1757年)が発生。

東シナ海を行く東インド会社艦隊

結果は知っての通りイギリス東インド会社の勝利となり、東インド会社の書記であったクレイグが総督としてベンガル地方の統治を行う事となった。これにより、貿易会社に過ぎなかった東インド会社がイギリスの植民地統治機関に変貌していく事となる。因みに当時の東インド会社は税金の収集から政権運営までの一切を行った。さらに、残るムガル帝国領も次第に占領していき、結果としてインド全域を治める事となる。(ムガル帝国はイギリスの属国として形式的に生かされる)

この様なインドでの特権を悪用して巨万の富を築くネイボッブと呼ばれる成金が登場する。これは社会問題となり、時の首相ピットが1784年にインド法を制定。インドの総督をはじめとする統治者はイギリス政府が任命し、東インド会社の経営に関しても政府が監視を行う事となった。これにより東インド会社は半官半民の企業になった。

衰退(19世紀)



1インドで絶対的な支配権を持っていた東インド会社だったが、本業の交易では儲けが出せずにいた。と言うのも船主が主体となった海運族が高額な船のチャーター料を要求した為である。これら海運族は東インド会社の役員はもとより議会にも影響力があった為、業務改善は行われなかった。

そして、19世紀に入り産業革命が起こると事態は一変する。イギリスは工業製品の輸出国となり、これらの製品を世界に売り込むのに利益の見込めない旧態依然の東インド会社では無く、彼らの下請けをしていたフリー・トレーダー(自由商人)が活躍する事となる。

18〜19世紀の英国商船

結果、東インド会社は1826年にインド貿易から撤退。1833年には中国との貿易独占権も失い、貿易事業から撤退した。更に追い討ちをかけるように今までに積りに積もっていた不満がインドで爆発。東インド会社の傭兵であったジパーヒーが1857年に反乱を起こし(インド大反乱)、翌年1858年8月にインドでの権益も政府に没収され事実上廃業に追い込まれる。
そして所持していた特許が切れた1874年に東インド会社は274年続いた歴史に幕を閉じる事となる。

参考サイト


・世界史の窓「イギリス東インド会社」

・The East India Company || 400 Years: Britain & India ||

次回予告


イギリス海軍とアメリカ独立戦争


あとがき



初めにお詫びいたします。前回「次回は東インド会社とアメリカ独立戦争」を特集すると予告致しましましたが、東インド会社だけで前回と同様のボリュームになってしまった為、アメリカ独立戦争に関するお話は次回にさせて頂きたいと思います。申し訳ございません。

P.S. 全3回を想定していたが3回で終わりそうにない...どうか最後までお付き合いください。



2020年7月17日金曜日

海洋国家イギリスの歴史を今に伝える博物館! |National Maritime Museum 国立海洋博物館 (イギリス、グリニッジ) [その1]

National Maritime Museum

イギリスは日本と同じく四方を海に囲まれている為、海上交易で栄たのは正に歴史の必然だった。従って海上交易はイギリス経済の生命線とも言える。この生命線を守る為、強力な海軍が組織された。言わずと知れたRoyal Navy(王立海軍)である。

旧王立海軍学校
グリニッジ標準時で有名なロンドン東部、グリニッジにはかつて王立海軍学校(現在は一般の大学となっている)があった。その南側に佇むのが今回紹介する国立海洋博物館だ。

以前紹介したヒストリック・ドックヤード チャタムは現代(動力船)の展示がメインだったのに対し、こちらは中世〜近世(木造帆船)の展示をメインに扱っている。
大航海時代〜産業革命にかけての歴史に興味がある方には是非オススメしたい博物館だ。



アクセス



ロンドン中心部からグリニッジへ訪れるには3つの方法がある。

①National Rail (旧国鉄)
チャリング・クロス駅、ロンドン・ブリッジ駅から乗車しグリニッジ駅で下車。所要時間は最も短く約15分。2020年7月現在、テムズリンクとサウスイースタン鉄道がそれぞれ列車を運行している。

②DLR
ロンドン交通局が運営する新交通システムで神戸のポートライナーや東京のゆりかもめの様な完全無人運転の高架鉄道(DLRは通常の鉄道と同じくレールの上を走る)。最寄駅はカティー・サーク号駅。所要時間はバンク駅から約20分。

③リバー・ボート
テムズ川の下流に位置する為、船での移動が可能。船からロンドンの街並みを眺めることができる為、時間に余裕のある方は是非試して欲しい。所要時間は約40分。



開館時間


10:00-17:00

※クリスマスの前後は閉館
※新型肝炎流行に伴い臨時休館を行っています。詳細は公式サイトを要確認

入場料


無料
(寄付金歓迎)


序章 船の基礎知識


ここでは、船に関する用語や基礎知識について解説します。この辺りの知識があると博物館に行った際にもっと楽しめるはず!初心者向けに説明する為、「私そんな事知っているよ」っていう方はスキップをして欲しい。

⒈ 用語解説



普段目にする大型船の殆どはエンジンやモーターによって航行する動力船だが、蒸気機関を搭載する汽船が発明される以前は、長らく風の力で航行する帆船が船の主流だった。ここでは一般的な3本マストの帆船を例に用語を解説する。普段聞き慣れない横文字が連発するがご容赦願いたい。

まず、船の船首をバウ(Bow)、船尾をスターン(Stern)と呼ばれている。

①〜③マスト:⑤セイルの鉛直方向を支える柱
 ①フォアマスト(Foremast):最前列のマスト
 ②メインマスト(Mainmast):船の中央に位置し、一般に最も背が高い
 ③ミズンマスト(Mizzen mast):最も後方に位置するマスト

④ヤード(Yard):⑤セイルの水平方向を支える支柱

⑤セイル(Sailまたは帆):風を受けるための部分で材質は帆布が使用される。帆の場所によってトップセイル(Topsail)、コースセイル(Course sail)、バウスプリットセイル(Bowspritsail)など様々な名前があるが、今回は割愛する

⑥ブレース(Brace):ヤードの両端から伸びているロープで、ヤードの角度調節に用いる。角度を調節する必要のない時はロープを係柱(Bit)に固定する

⑦錨(Anchor):錨泊する際に用いる。一般的には船首から投錨するが、船尾から行う事もある

⑧ハル(Hull):船体の外板

⑨舵(Rudder):舵から伸びた縦軸の先端(舵頭)には横軸の舵柄(Tailler)が伸びており、船尾から士官次室(戦列艦の場合)まで伸びている。これに繋がれた操作索が上甲板の舵輪(Steering)に繋がっている

舵輪(Steering)

2. 船の変遷


近世における代表的な船の種類を3つ解説する。現代の船がそうである様に帆船の形は時代によって変化していった。

①ガレオン船 (16〜18世紀)


それまでの船の主流はコロンブスが新大陸を発見した際に乗船したサンタ・マリア号などのカラック船(Carrack)と呼ばれる船だった。16世紀に入るとこれを発展したガレオン船に取って代わられる様になる。ガレオン船は全長が長く、船首が低い代わりに船尾を高くし舵の効きと船速を良くしている。1588年に起こったアルマダの海戦においてスペインの無敵艦隊は重武装のガレオン船で艦隊を構成していた。

因みに、フィクションではあるが映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズに登場するフライング・ダッチマン号は典型的なガレオン船の形状をしている。

②戦列艦 (18世紀〜19世紀)


18世紀に入るとイギリスで寸法規定(Establishment)が制定され、船のサイズや搭載する大砲の数が規定された。これにより、従来のガレオン船から発展したのが戦列艦(Ship of the Line)だ。それまでは全ての船が一品一様で性能がまちまちだったのに対し、この規定によって大まかな規格が統一された。

しかし、この寸法規定は設計の自由度を奪ってしまい、結果的にイギリス海軍の艦艇は他国に遅れを取ってしまう。その為寸法規定は廃止され、海軍が設計を行い造船所が製造するといった現代に近い形に落ち着く。

この様な流れによって18世紀中盤にフランスで開発されたのが74門艦だ。大砲は配置されているデッキが2層あり、約74門の大砲を搭載するこの船は火力と帆走能力のバランスが良く各国海軍で同型艦が多数建造された。

因みに、戦列艦は一般的に大砲の数で分類される。(100門艦、80門艦...など) ただしイギリスではより小型のフリーゲートを含め六等級に分けて分別した。等級は非常に分かり易いのだが、時代によって大砲の数が変化していったので、あまり使い勝手は良く無かった。

③クリッパー (19世紀)


クリッパー (Clipper)は快速帆船とも呼ばれ、スマートな船体に巨大な帆が特徴的な帆船の最終形態である。船体が小型化した為、積載量は減ったが巨大な帆は高速を発揮し、主にアジアから茶葉を欧州に輸送する際に用いられた。その為、ティークリッパーとも呼ばれる。しかし、1869年のスエズ運河開通を境に蒸気船にその役目を譲った。

クリッパー船であるカティー・サーク号(Cutty Sark)がこの博物館と同じグリニッジで保存されているので、ここを訪れた際は是非見に行って欲しい。
※カティー・サーク号の船内を見学するには入場料(大人£15、子供£7.50)が必要です。

次回予告


東インド会社の設立


あとがき



私生活が忙しく投稿間隔が遅くなってしまい、大変申し訳ありませんでした。失踪したと思われた方も居たのではないかと推察します。今回から3回に分けてグリニッジの国立海洋博物館について特集したいと思います。近世英国史は私の専門分野ですので、気合を入れて皆様に魅力をお伝えできればと思います。何卒お付き合いの程よろしくお願いします。

P.S. 願くば近世欧州史ファンを増やしたいな。(古今東西WW2以降の歴史が人気だけど)